兵庫県明石市に生まれて、地元の高校を卒業後、子供の頃からの夢だったロボットを作る博士になるために、エンジニアを目指して大学の工学部機械工学科へ進学しました。
片道2時間かかるところを理系でしたので、1,2回生の頃はほぼ毎日フルで授業があり、朝の暗いうちから出て、夜も暗くなってから帰るような生活を繰り返していました。
当時はまだ、CADなんてなくて図面は手書きでしたので、課題とか作成するのに家にドラフターがなくて大変でした。
当然、Windowsもスマホも携帯もない時代です。
しかし、学年が進むほどに材料力学・熱力学・流体力学など、かなり物理的な理論を勉強していくと、だんだん自分がそっちの方面に向いているのか?分からなくなってしまいました。
就職活動の際も、エンジニアとして図面を引っ張っている自分が見えてこなかったので、特に就職活動らしいことはしていませんでした。
当時はまだ売り手市場で、リクルートから分厚い辞典みたいな会社案内が勝手に送られていました。
で、実家が酒屋だったので、飲料メーカーを何社か受けたりしてましたが、そもそも働く意味とか分からずに動いていたので、内定が出てても行きたいって気持ちはなかったかな?
そんな感じだったので、何も考えずに家業を継ぐことを考えましたが、親からはやはり一度は外で働いたほうがいいと言われ、問屋さんの紹介でビールメーカーに就職することになりました。
平成3年、バブルは弾けてましたが同期72名と当時銀座の本社で入社式があり、そのまま1ヶ月間泊まり込みでの集団研修がありました。
葉山の保養所で基礎研修があったり、本社のいろんな部署の方の話を聞いたり、酒屋さんでレジ打ちをしたり、群馬や千葉の工場へ行ったり、毎日ハードスケジュールでした。
研修の最終日には、配属発表があり「京都支社、営業企画部」と命じられ、まだ「働く」ことにピンと来ていないまま、右も左も分からず京都支社へ。
そこからは地獄でした、まず酒もろくすっぽ飲めないのにビールメーカーなんて入って、ほぼ毎日飲んでは出しての繰り返しでした。
しかも、チューターの先輩が東大卒のエリートなのか?めちゃめちゃ厳しくて電話のやり取りがちょっとでもおかしかったら、電話中に受話器を奪われたりしてました。
その後、半年後に営業部に配属となりチューターの人も転勤でいなくなったので、ホッとしていましたが、今度は配属された営業課長から初日にお荷物扱いされ、悔しい思いをしました。
担当エリアは滋賀県で、地方営業ということで出張も多く、酒処なのでお酒の席は日本酒がメインでしたので、さらにキツかったです。
それでも、仲良くなって顔見知りになってくると、いい人ばかりでしたので、無理難題を聞いたり、聞いてもらったりとビジネスってこうやって流れていくんだ、とだんだんと分かってきました。
自分のエリアもかなり顔が利くようになってきたときに、全社で業務用の拡販キャンペーンがあり、いろいろな方にご協力頂いて、偶然全国の営業のトップ3に入るという結果になりました。
自分では、そんなつもりで動いていたわけではないのですが、営業初日にダメ出しをくらった課長がすごく喜んでいたのを覚えています。
そして、東京の本社で表彰式があるから行って来いと言われ、まだ開業前の恵比寿に行って社長から表彰と金一封を頂いて帰ってきました。
続く・・・。